駄犬の株ログ

「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」(アーヴィング=フィッシャー, 1929年)

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「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」(アーヴィング=フィッシャー, 1929年)

[投資本] テンプルトン卿の流儀 (ローレン・C.テンプルトン)

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テンプルトン卿(ジョン・テンプルトン)の生い立ち、投資哲学、トラックレコードについてまとめた本。テンプルトン卿は20世紀中盤から終盤にかけて活躍したファンドマネージャーで、彼のテンプルトン・グロース・ファンドは長期間にわたってマーケットをアウトパフォームし続け、すばらしい実績を残しました。

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テンプルトン卿の投資スタイルはバリュー投資です。幅広い候補から割安な投資対象を見つけ出し(バーゲンハンティング)、水準が訂正されるまで長期保有します。マーケットが悲観の極みにあるときに勇気を持って買うことが大事だということが繰り返し言葉を換えて出てきて、最後の売り手が市場を去った後に機敏に買い手側に回るんだ、「ウォール街に血が流れているときが最高の買い時」だと述べられます。翻ってバブル相場に対しては1章を割いて、南海泡沫事件から2000年ごろのITバブルに至るまで徹底的にdisっています。

テンプルトン卿の投資で良いのは、個別銘柄の分析だけでなく、世界情勢や国家体制などのマクロな視点から投資対象を選択していることです。アメリカ株に限らず世界中の株式に投資するし、相場が悪いときには債券に資金を移したりもしています。(ITバブルの崩壊)

投資家の課題は悲観論や恐怖、不安から生み出される投資機会をつかむことにあるが、たいていは国ごとに将来の見通しが異なっている。国によって見通しや投資家心理が異なることで資産価格にも国ごとの落差が生じる。もっと端的に言えば、国ごとの見通しの違いから株式のバーゲン価格にも差が生まれる。

ローレン・C・テンプルトン.テンプルトン卿の流儀 (Kindle の位置No.828-831). . Kindle 版.

本書で取り上げられたテンプルトン卿の投資でも、以下の2ケースは特に面白いです。マーケットが暴落したり、他の投資家に「この国は駄目だ」と思われている状況から買い向かっており、だからこそ大きな利益をあげています。投資では大衆の逆を行くことが大事だとよく言われますが、そのよい実例になっています。それ以外にも学びのあるケースがあって(たとえば9.11テロの直後に航空会社の株を買い向かったりしている)、通読の価値がある本だと思います。

第二次世界大戦

  • 1939年、第二次世界大戦が勃発。欧米の株式市場は暴落した。
  • テンプルトン卿はやがてアメリカが戦争に巻き込まれると確信し、そうなればアメリカの産業が軍需に沸くと考えた。
  • テンプルトン卿は元上司から資金を借り入れ、アメリカのマーケットで1ドル以下の全銘柄を買った。1ドル以下としたのは業績の悪い企業ほど軍需の恩恵の度合いが大きいと考えたから。全銘柄としたのはリスクヘッジのため。
  • 購入した株は平均で4年保有した後に売却し、最終的に1万ドルの資金が4万ドルになった。
  • ミズーリ・パシフィック鉄道は0.125ドルで購入した株が105ドルにまでなった。(ただしテンプルトン郷は高値のだいぶ手前で売ってしまったらしい)

日本の高度成長

  • 第二次世界大戦直後の1950年代、大多数のアメリカ人の認識では日本は後進国であり、安価で劣悪な製品を生産する停滞した国だった。
  • テンプルトン卿は戦後まもなく日本を訪れ、日本が工業国として復興すると確信した。
  • 当時の日本には国外の投資家が資本を日本から持ち出すことができないという規制があった。海外の投資家が日本への投資を避ける一因だったが、テンプルトン卿は日本の国際化にともなって規制がなくなると考えた。(実際にその後なくなった)
  • 当時の日本株は割安であり、PERはわずか4倍だった(特定の銘柄のことか、マーケット全体の数字かは読み取れず)。テンプルトン卿はこの時期の日本株日立製作所イトーヨーカドーなどを購入した。
  • その後、日本の高度成長に伴って日本経済の評価は高まり、国外からの投資を集めるようになった。テンプルトン卿のファンドは1960年代後半から70年代にかけてこの恩恵を受け、高いパフォーマンスをあげた。

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